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中居正広のキンスマ【志村けんの小学校の頃からドリフターズデビューまで】

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中居正広の金スマスペシャル(2020年4月3日テレビ放送)で
1年前にお笑いタレントの
志村けんさんがゲストとして語ってくれました。

志村けんさんは
どんな家庭で育ったのか?
なぜお笑いを目指したのか?

あまり知られていませんが
話してくれました。

※志村けんさんは新型コロナウイルスに感染して
2020年3月29日に亡くなりました(70歳)

志村けんの小学校の頃からドリフターズデビューまで

 

志村けんの家族

誕生場所  東京都東村山市

父   小学校の教頭先生
母   専業主婦
兄弟  3人男ばかりの兄弟

志村けん    兄弟の一番下
志村けん本名  志村 康徳(しむら やすのり)

志村けん誕生日  1950年2月20日
志村けん死亡   2020年3月29日(70歳)

小学校の頃の父親は

父親は小学校の教頭先生でとても真面目で、
口数は少なく、あまり笑わない人だった。

柔道は5段で強かったそうです。
厳格な家庭で食事も静かに食べていたそうです。

小学校の頃はどんな子供なの

小学校の頃、登校途中に畑があって、
トマトを食べたりスイカを食べていたそうです。

また何か悪い事をすると、
「先生ちの子供と言われて、
レッテルを貼られていました。

そのようなイメージを周りから、もたれているんで、、

だからあまりいたずらを、したらいけないんだって、、」

っと自分で悪いことはしないようにと、
自覚をしていた様子でした。

志村さんがお笑いを選んだ
きっかけは事件が

小学校3年の時に運動会がありました。
徒競走を する時に 失敗しました。

それからは、からかわれるようになりました。
志村さんは何とか悪いイメージを、とりたかったそうです。

そんなある日小学校4年生の時でした。
友達の家で柳家金語楼さんの、
落語を蓄音機で聞いたところ、

友達とそれをやってみようかと言う事になって、
教室で酔っ払いの真似をしました。

そして一躍人気者になったそうです。

ひょうきん者を演じる事で、
みんなの笑いをとって、
いじめられる事もなくなったそうです。

又、体操の時間では先生の一番前で体操をしました。
その時は右左の動きが先生と同じです。

でも友達は左右の動きが先生とは逆なんですね。
すると友達は大笑いです。

この時志村さんは
「人を笑わせるって気持ちいい」っと、
感情が育ってきたそうです。

そしてこの頃、人を笑わせる仕事に興味が出てきたそうです。

さらにテレビとの出会いで人を笑わせる仕事を

昭和30年代に志村さんの家にも、
テレビが観える様になりました。

中でも夢中になったのが
「雲の上団五郎一座」
が演じる喜劇でした。

家族がテレビを観ていると父が入ってきて、
みんなシーンと緊張しました。

ところが急に父が声を出して笑ったんです。

普段笑わない父が笑ったんで、
志村さんは感動したそうです。

「この人たちすごいな、笑わない人を笑わせるなんて」
この頃からコメディアンに憧れたそうです。

父親が交通事故で

中学校の時に大きな音がしたので、
外に出てみるとオートバイと人が倒れていました。

よく見るとお父さんでした。
病院で診てもらったところ、幸いにも大きな怪我はなくて、
一週間ほどで退院しました。

しかし本当の悲劇はここから始まったそうです。
交通事故から3年後、
事故の後遺症による記憶障害になりました。

その後先生は休職したそうです。

ビートルズのチケットを譲ってもらった

高校の時にバンドを作ったりして、音楽に夢中になっていました。
特にビートルズが大好きでした。

高校2年の時(1966年6月)ビートルズの初来日公演がありました。

すると同級生の女の子がチケットを持っていました。

そこで志村さんは彼女を一生懸命に説得して、
チケットを譲ってもらったそうです。

この時に前座として演奏したのが、
ザ・ドリフターズでした。

しかし志村さんが観たのは、ドリフターズが前座をした翌日でした。
これは真実ですよ。

世間一般ではドリフターズが前座をした時に、
志村さんが観たと言われていますが、
これは間違っているそうです。

※この時点では志村さんとドリフターズは、
まだまだ会っていませんね。

この頃志村さんは音楽と笑いを絡めた、
コミックバンドを目指していました。

18歳の時にドリフターズに弟子入りを志願

ドリフターズの「いかりや」さんに弟子入りを決意しました。
高校3年生の雪の降る寒い日でした。

芸能人の雑誌の付録に住所が出ていたので、
「いかりや」さんの自宅を訪問しました。

すると奥さんが出てきて。
「主人はまだ帰宅していません。
それに人は足りてるみたいだから、諦めた方がいいですよ」
と言われました。

帰りかけた志村さんですが、
ここで諦めたらコメディアンにはなれない!

そこで自宅の外で寒い中、
12時間も「いかりや」さんを待っていました。

するとやっと帰宅してきたので
「ドリフターズの付き人をさして下さい」

すると「今辞めそうな人が一人いるから、辞めたら連絡をする」
ということで志村さんは帰りました。

ついにドリフターズの付き人に

待つこと一週間で電話あって 、ついに付き人をする事になりました。

芸名は「志村けん」
父の憲司さんからとったそうです。

その後は辛く長い下積み生活でした。
付き人が3人いましたが一番年下で、
主な仕事は楽器運びとセッティングでした。

ドリフが来れば 着付け、食事の準備などでした。
メンバーが残したラーメンの汁を食べていたそうです。

中でも大変なのは寝台列車での、地方巡業だったそうです。

志村さんは19歳の時に電車の曇りガラスに
「今に見てろ」と自分に言い聞かせていたそうです。

志村さんがドリフターズの付き人になってから数ヶ月後、
「8時だヨ!全員集合」が始まりました。

忙しいに荷物運びのかたわら
「いかりや」さんのコメント作りの技を盗み観ていたんですね。

お笑いコンビ「マックボンボン」結成

そして付き人になってから約3年後、

同じ付き人で「マックボンボン」
と言うコンビを結成しました(22歳でした)。
(ドリフターズの付き人は辞めたようですね)

1年もするとレギュラー番組もあったそうです。

しかしこの時父親が亡くなったそうです(54歳)

「マックボンボン」は解消して、
再度メンバーを変えて結成したがまた解散しました。

再度ドリフターズの付き人をする事に

そこで再度ドリフターズの付き人をする事になりました。

志村さんは舞台の横でドリフターズの活躍を見ていて、
自分もスポットライトを浴びて笑いをとりたい、
と強く思うようになったそうです。

でもまさか自分がその中に入るなんて、
全く思っていなかったそうです。

荒井注さんがドリフターズを脱会

しかしある日、突然びっくりする事が起きました。
荒井注さんが体力限界で、

ドリフターズを脱会することになりました。
新メンバーで決まったのが志村さんでした。

志村さんは当時のことを、
「全然そういうことは想像していなかった。
ドリフターズのメンバーに入るとかと、
言う事は一切なかったですからね。

嬉しいのと、これからどうするんだろうと不安もありました。
だって全員僕の師匠ですからね、言ってみれば、、

その人たちの仲間に入って何ができるかな、、」

っと未来への不安をのぞかせました。

後日「いかりや」さんは、
本の中で志村さんを抜擢した理由を

「荒井注が辞めるのに新メンバーを育てないといけない。

志村しかいない。
志村は貪欲に笑いを盗もうとしている。
また作ろうともしている。
ともかくネタを考える事ができるやつだった。」

っと書いています。

志村さん「8時だヨ!全員集合」でデビュー

1974年3月(24歳)
「8時だヨ!全員集合」で
ついに見習いメンバー(3ヶ月)として紹介されて、
初デビューとなりました。

この後はあなたもご存知のように、
大コメディアンとして、すばらしい成長、活躍されましたね。

まとめ

 
志村さんの「8時だヨ!全員集合」は
よくテレビで観ました。

よくもあんなにネタが次々と、
考えられるのか今も不思議ですね。
感心します。


最後まで読んで頂いて有難うございます。

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